前16世紀~11世紀の古代エジプト

目次

  1. エジプト新王国時代  
  2. 第18王朝(前1550-1295年)  
  3. 第19・20王朝(前1295-1069年)
  4. 参考文献

1. エジプト新王国時代

アナトリアにヒッタイト王国が栄えた前17世紀から前12世紀は、古代エジプトにおいても大きな変化を迎える時期であった。この項目では、ヒッタイト王国と同時期に繁栄したエジプト新王国の歴史について、周辺地域との関係を中心に概説したい。エジプト新王国時代は、前16世紀から前11世紀までの約500年にわたって続いた古代エジプトの一時代である。

紀元前16世紀末から13世紀にかけてのエジプトと周辺諸国
Baines, J. and J. Malek, Cultural Atlas of Ancient Egypt, Revised edition, New York, 2000, p. 44の地図をもとに作成

2. 第18王朝(前1550-1295年)

前17世紀後半のエジプトは、ヒクソスの支配を受けた第二中間期と呼ばれる混乱期にあった。この状況を打開し、エジプトの新たな統一時代の幕を開いたのが、第18王朝最初の王、イアフメス(在位:前1550-1525年)である。前16世紀に南パレスティナのシャルヘンを占領し、ヒクソスの勢力を排除したイアフメスは、国境を固め、テーベを都として国内の行政機構の基礎を築いた。同じく内政整備に力を尽くした二代目の王、アメンヘテプ1世(在位:前1525-1504年)が死没すると、トトメス1世(在位:前1504-1492年)が王位を継承することとなる。トトメス1世の出自は明らかではないが、イアフメスの娘であるイアフメス王女との婚姻により、王家の血筋に加わったとされる。トトメス1世は、南方のヌビアや北方アジアへの遠征で成功おさめると、国家神であるアメンを崇め、カルナック神殿に大量の寄進をおこなうとともに、神殿の拡大を推し進めた。これをはじまりとして、諸王によるカルナック神殿への戦利品の寄進と神殿の拡大が慣例化され、後に政治的に大きく対立するアメン神官団の権力の拡大へとつながることとなる。ルクソールにあるカルナック神殿は、古代エジプト全時代の神殿のなかでもひときわ大きな規模を誇る。現在に残る遺跡は、積極的に拡大されたエジプト新王国時代の繁栄を現代に伝えている(図1)。

図1 カルナック神殿 大列柱室(ルクソール:筆者撮影)

トトメス1世の王女ハトシェプストは、夫トトメス2世(在位:前1492-1479年)の死後、その後継者であるトトメス3世(在位:前1479-1425年)の摂政となった。後にハトシェプストは、トトメス3世が幼年であることを理由に、女王として15 年に及ぶトトメス3世との共同統治を行い、絶大な権力を握ることとなる(共同統治:前1473-1458年)。ルクソールにあるハトシェプストの葬祭殿には、彼女が正当な王位の継承者であることを強調するレリーフや、プントやビブロス、シナイ半島との交易を描くレリーフが残されている。

ハトシェプストの死後、トトメス3世が単独統治者となった時、西アジアの情勢はエジプトにとって好ましくないものとなっていた。メソポタミア北部のミタンニ王国がシリア北部のカデシュ侯を盟主とする対エジプト同盟を結び、シリア・パレスティナの大部分まで勢力を拡大していたのである。この危機的状況を打破するため、トトメス3世は単独統治の開始後すぐにアジア諸国への遠征に乗り出した。カルナック神殿に刻まれた「トトメス3世年代記」には、単独統治の開始1年目から計17回にわたっておこなわれた遠征の内容が刻まれている。第1回目の遠征でおこったパレスティナ中部の交易都市メギッドでの戦いを皮切りに、長きにわたるミタンニ勢力との争いを繰り広げていく。治世第33年のおこなわれた第8回遠征では、カルケミシュ近郊での戦いに勝利し、ユーフラテス川の東岸に国境を定めた。その後もミタンニ勢力を打倒するための遠征を繰り返し、第17回目の遠征でのカデシュを占領することで、オロンテス河中流以南のエジプト支配を確立した。トトメス3世は、遠征の際にエジプトに忠誠を誓わせた諸都市の君侯の子を人質としてエジプトに連れて行き、エジプト式の教育をほどこした。これは、次代の諸都市の支配者となると君侯の子に、エジプトへの忠誠心をあらかじめ備えさせておくためと考えられる。トトメス3世は、軍事的な手腕だけでなく、政治家としても優れた手腕を振るい、エジプトによるシリア・パレスティナの支配体制を築きあげた。これにより、エジプトはこれまでにない程の大国となり、前2000年紀のアジア諸国に大きな影響を与えることとなった。

アメンヘテプ2世(在位:前1427-1400年)の時代になると、北シリアが再びミタンニ王国の勢力下に置かれ、シリア・パレスティナの支配権を巡る争いが再び激化した。しかし、時を同じくして、トゥトゥハリア1世率いるヒッタイト王国が南下を開始し、ミタンニ王国の支配下にあった北シリアに侵入した。ヒッタイト王国の存在は、シリア・パレスティナの覇権を巡る新たな勢力となり、これを契機としてエジプトとミタンニの対立関係は急激に緩和され、両国の間で支配領域の現状維持を目指す条約の交渉が進められた。その後、トトメス4世(在位:前1400-1390年)の治世に条約が締結され、エジプトとミタンニの同盟関係により、シリア・パレスティナの情勢が安定した。ミタンニとの友好関係はトトメス4世に続くアメンヘテプ3世(在位:前1390-1352年)の治世にも引き継がれ、両王のもとにミタンニの王女が妻として送られた記録が残されている。また、アメンヘテプ3世はその他の周辺諸国の王女との政略結婚も積極的におこない、アジアにおけるエジプトの地位を揺るぎないものとした。

トトメス1世にはじまる積極的なアジア遠征によって、エジプトにとって好ましい国際関係を築くことに成功する一方で、国内の情勢には変化が生じはじめていた。遠征後の度重なる神殿への寄進や神殿の増築により、カルナックのアメン神官団が王に干渉するまでに大きな政治的権力を握るようになっていた。いずれの王もアメン神官団の力を抑えるよう努めたが、アメンヘテプ3世の時代には、王と神官団との対立が顕著となっていた。このような緊迫した状況のなか、アメンヘテプ3世の子、アメンヘテプ4世(在位:前1352-1336年)は、都をテーベからアマルナに移し、アメン神官団との関係を完全に絶った。そして、自らの名をアクエンアテンと改め、太陽神アテンを絶対的な神とする一大改革を試みる。 アマルナ革命と呼ばれるこの宗教改革は、アクエンアテン一代のみで終焉を迎えたが、その後に大きな影響を与え、エジプト国内の情勢は不安定なものとなった。この混乱のさなかにエジプトは、北シリアの領土を失ったと考えられる。トゥトゥアンクアメン(ツタンカーメン 在位:紀元前1336-1327年)やアイ(在位:紀元前1327-1323年)といった王の短い治世が続き、軍人出身の王ホルエムヘブ(在位:紀元前1323-1295年)が第18王朝最後の王となる。

アマルナ革命後に放棄されたかつての都、アマルナからは「アマルナ書簡」と呼ばれる約350点におよぶ粘土板群が発見された。この粘土板の内容の多くは、アメンヘテプ3世の治世末期からアメンヘテプ4世の時代に諸外国との間に交わされた外交書簡であり、前14世紀のエジプトと周辺諸国との国際関係をうかがう重要な史料となっている。書簡は主に、バビロニアやミタンニ、ヒッタイトなど当時に大きな勢力を誇った諸国からエジプトに宛てられた「国際書簡」と、エジプトの支配領域にあったシリア・パレスティナの諸都市の属王からの「属王書簡」に大別される。国際書簡の内容からは、政略結婚のために諸国の王に対して王女をエジプトにおくるよう要求しながらも、自国からは王女を嫁がせる意思がないことを明確に示すなど、強国との関係を維持しながらも中心的な立場にあろうとする姿勢がうかがわれる(EA 2, EA 1)。エジプトの支配下にあるティルスの領主からエジプトに宛てられた属王書簡(EA 151)の内容からは、アメンヘテプ4世の時代のシリア・パレスティナの支配体制が十分には安定していなかったことがうかがえる。書簡のなかで、属王はアメンヘテプ4世に混乱の解決のための軍事的援助を懇願しているが、国内の一大改革に努めていたアメンヘテプ4世がこの問題をうまく解決できたかは定かではない。


3. 第19・20王朝(前1295-1069年)

第18王朝最後の王ホルエムヘブは、自身の後継者として同じく軍人出身のパラメセスを次王に指名した。ホルエムヘブの死後、パラメセスはラメセス1世(在位:前1295-1294年)として王位に就き、第19王朝の初代の王となった。続く2代目の王セティ1世(在位:前1294-1279年)は、再びシリア・パレスティナにおけるエジプトの覇権の奪還を目指した。カルナック神殿のレリーフからは、セティ1世が当時すでに強大な勢力であったヒッタイトとの戦いをおこなったことが知られる。王は北シリアの要衝であるカデシュとアムルの攻略を目指したが、次代のラメセス2世の治世の状況から、完全な勝利をもたらすことはできなかったと考えられる。

続く3代目の王ラメセス2世(在位:前1279-1213年)は、ヒッタイトの歴史ともっとも深く関係するエジプトの王である。ラメセス2世は、エジプト史上もっとも偉大な王の一人として知られる。彼は、セティ1世の晩年に摂政として国政を補佐した後に父王を継ぎ、60年間以上にわたってエジプトを統治し、大きな繁栄をもたらした。ラメセス2世は、治世の後半にアブ・シンベル神殿の建造やカルナック神殿・ルクソール神殿をはじめとする既存の神殿の改築・増築を精力的におこなった。数々の大規模事業を支えたラメセス2世の時代における繁栄の背後には、王が治世の前半におこなった対外政策があると考えられている。ミタンニ王国が衰え、ヒッタイトの脅威が迫る緊迫した状況下に即位したラメセス2世は、父王の対外政策を引き継ぎ、シリア・パレスティナの回復を目標に定めた。王の治世の最初の10年間の間に少なくとも4回の西アジアへの遠征がおこなわれたことが知られる。その中で最も重要な戦いとして記録に残されるのが、前1274年に、ヒッタイトとエジプトの両軍が激突した「カデシュの戦い」である。

「カデシュの戦い」は、王の治世第5年に行われた二度目のアジア遠征でおこった戦いであり、ラメセス2世の偉大さを誇示するかたちで史料のなかで描写されている。ラメセス2世は、二万の軍勢からなる4つの師団を率いてカデシュの奪還のため北へと進軍した。その際、ヒッタイト王ムワタリ2世がエジプトを恐れ、カデシュの北にあるアレッポの町から南下できずにいるという情報を得た。ラメセス2世はこれを受け、急いでアメン師団(第1師団)を率いカデシュへと向かい、カデシュ城外に陣をしいた。

しかし、ヒッタイト軍の情報は偽りであり、ムワタリ2世が率いる大軍はすでにカデシュに到着し、身を潜めていたのであった。ヒッタイト軍は、はじめに後続するラー師団(第2師団)を急襲し、壊滅状態に追い込んだ。そして、後続との連携を絶ったヒッタイト軍は勢いそのままにラメセス2世の率いる第1師団を攻めこみ、エジプト軍を大混乱に陥れた。その後の援軍により、エジプト側は軍を立て直すことができたものの、膠着状態となり、最終的には和解によってエジプトが軍を引き返すこととなった。

「カデシュの戦い」を描いた神殿のレリーフには、この戦いのなかで神の加護をうけたラメセス2世が戦車を駆り、神がかった力で奮戦し、勝利を収めたと刻まれている(図2)。しかし、エジプト側の目標であるカデシュの占領がかなわかったことを考えると、実際にエジプトが「勝利した」と史料の言葉通りに考えるのは難しい。レリーフに刻まれた内容は、ラメセス2世の勇猛さや偉大さを強調するための誇示的な描写と考えられる。この戦いがおこった二度目の遠征後も、ラメセス2世は幾度かの遠征をおこなったが、シリア・パレスティナの状況は大きくは変わらなかったようである。

図2 ラメセス2世葬祭殿(ラメッセウム)に刻まれた「カデシュの戦い」のレリーフ(上:筆者撮影/ 下:Breasted, J. H. The battle of Kadesh: a study in the earliest known military strategy, Chicago, 1903, Pl. III)

とことが、長きにわたって対立したエジプトとヒッタイトの関係は、その後一転して良好なものとなる。ラメセス2世の治世第21年、ヒッタイト王ハットゥシリ3世の治世に両国間で平和同盟条約が締結されたためである。この条約締結の背景には、アッシリアをはじめとするヒッタイトに敵対的な勢力の出現があったと考えられる。条約の主な内容は、領土不可侵や、その他の国から攻撃を受けた際の相互の軍事援助を約束するもので、これ以降、エジプトとヒッタイトの平和的な関係が築かれることとなった。この条約の締結をはじめとするラメセス2世の外交政策が功を奏して、エジプトに新たな繁栄がもたらされた。

エジプトとヒッタイトの友好関係は、ラメセス2世の後継者であるメルエンプタハ(在位:前1213-1203年)の時代にも維持された。メルエンプタハの葬祭殿から発見された石碑には、ヒッタイトに飢饉が起こった時、エジプト側から穀物が援助されたことが記されている。一方で、同時代の史料にはいわゆる「海の民」を撃退した記録が残されており、「海の民」の存在がエジプトの脅威になりつつあったことがうかがえる。 メルエンプタハの死後、第19王朝は急激に衰え、王朝末期には政治的混乱が生じていた。この混乱のなか、王の直系ではないセトナクト(在位:前1186-1184年)が王位につき、第20王朝が始まる。第20王朝は、2代目の王ラメセス3世(在位:前1184-1153年)の時代に大きな力を持っていたが、同時に度重なる異民族の侵入にも苛まれていた。特に、「海の民」は本格的な侵入を目指して度々エジプトへと迫り、ラメセス3世は、外敵に対する国土の防衛に力を注ぐことを強いられた。少なくとも3度にわたっておこなわれた防衛戦に勝利し、一時的な平和がもたらされたものの、エジプトはその後、再び政治的混乱に陥ることとなる。たび重なる王の交代や官僚の不正や飢饉、物価の高騰、リビア人の襲撃などが起こり、かつての繁栄と平和を国内で保つことができないまま、ラメセス11世(在位:前1099-1069年)の時代をもって第20王朝は終わり、エジプトは第三中間期とよばれる新たな混乱期を迎えることとなった。

*各王の在位期間の年代は、Shaw, I. (ed.) The Oxford History of Ancient Egypt, Oxford 2000にしたがう。

4. 参考文献

近藤二郎 「アメンヘテプ三世とその時代」『岩波講座 世界歴史2-オリエント世界-』岩波書店 1998.

日本オリエント学会編『古代オリエント辞典』岩波書店 2004.

馬場匡浩 『古代エジプトを学ぶ-通史と10のテーマから-』六一書房 2017.

屋形禎亮 「オリエントの国際政治のなかで」 大貫良夫ほか著 『人類の起源と古代オリエント』 中央公論社 1998, 451-501.

屋形禎亮 「栄光と衰退」 大貫良夫ほか著、『人類の起源と古代オリエント』 中央公論社1998, 502-531.

古代エジプトの歴史・エジプト学をより深く学びたい方へ

Shaw, I. (ed.) The Oxford History of Ancient Egypt, Oxford 2000.

河合望 「埃及学指南のための覚書」『エジプト学研究』第22号 2016, 203-226.

イアン・ショー(近藤二郎・河合望訳)『1冊でわかる 古代エジプト』岩波書店 2007.

(文責:肥後時尚)

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