ヒッタイト王国の歴史
目次
研究史:ハットゥシャ遺跡の発掘・ヒッタイト語の解読
紀元前17世紀頃から前12世紀初めまで、現在のトルコからイラク北部・シリアにおよぶ領域を支配したヒッタイト王国の都「ハットゥシャ」(現ボアズキョイ)はトルコ共和国の中央、アナトリア高原にある。

1834年、ハットゥシャの遺跡を最初に「発見」したのはフランス人建築学者シャルル・テクシエであった。その後、この遺跡はフランス人考古学者エルネスト・シャントルによって予備調査が行われ、初めて楔形文字の刻まれた粘土板文書が見つかっている。本格的な発掘は遺跡の「発見」から約70年後の1906年、ドイツ人考古学者のフーゴー・ヴィンクラーとオスマン帝国博物館(現イスタンブール考古学博物館)のセオドア・マクリディの指揮下で開始された。特に「ビュユックカレ」と呼ばれる宮殿跡からは、断片も含めて2500枚もの楔形文字粘土板文書が発見され、この巨大遺跡がかつてハットウシャと呼ばれたヒッタイト王国の都であったことが判明した。その後、ハットウシャ遺跡の調査はドイツ考古学研究所を中心に行われ、第二次世界大戦中の中断期を挟んで、現在も行われている。
ハットゥシャ遺跡が開始されてから10年が経過した1915年、チェコ人の言語学者フロズニーがそこに記されている言葉がインド・ヨーロッパ語であることに気づいたことをきっかけに、ヒッタイト語の解読が進むこととなる。ここに「ヒッタイト学」が開始された。
ヒッタイト王国の歴史

古王国時代
ヒッタイト王国の歴史は、ハットゥシリ1世がハットゥシャを都に定めたことに始まる。ハットゥシリ1世は、アナトリア高原を統一し、本国の支配を固めると、さらにユーフラテス河を越えて東への勢力拡大を目指した。国内においては、神話や歴史に関する文書、『ヒッタイト法典』が編纂されたと考えられ、王国の文化の基礎ができあがった時代であった。また、その治世には「パンク」と呼ばれる機関が存在したことが知られている。パンクとは、王族かつ国家官僚に構成される集会であり、条約や王の勅令の証人となって施行を承認したり、高い地位にある犯罪者の裁判を行ったりする司法機関であった。ハットゥシリ1世は、この「パンク」に対し、孫のムルシリ1世を養子に取って後継者とする決定を宣言している。

(アナトリア文明博物館所蔵)
「パンク」に示されたように、ハットゥシリ1世の王位を継いだのはムルシリ1世であった。ムルシリ1世は、軍事面ではハットゥシリ1世の方針を受け継いでシリアへ遠征し、ヤムハド王国とその都アレッポを破壊した。また、これにとどまらず、バビロンを攻撃し、バビロン第一王朝を滅ぼしている。しかし、ムルシリ1世はバビロニアを支配することはなく帰国し、その後、王座を狙う義理の兄弟ハンティリに暗殺されている。このときから、ヒッタイト王国の不安定な時代が始まった。ムルシリ1世を暗殺したハンティリは、妻と息子たちを当時戦争状態にあったフリ人に捕えられ殺されたと言われ、さらにその晩年には王族ジダンタに他の後継者たちも殺された。そうしてジダンタ1世が王座に就くも、ジダンタは自らの息子アンムナによって暗殺された。アンムナは息子たちに王位を継承したものの、今度はアンムナの義甥フジヤ2世がアンムナの息子らを殺し、王位に就いた。

このフジヤ2世に代わり王位に就いたのはテリピヌであった。テリピヌは、『テリピヌ勅令』と呼ばれる文書に記されているように、宮廷内の抗争を根絶するべく、改革を断行したことで知られる。なかでも有名な決定は王位継承順位を定めたことである。それによると、王位継承者は第1位の息子(王の正妃の息子)であるべきとし、第1位の息子がいない場合にのみ第2位の息子(正妃以外の王妃の息子)が継承すべきとした。さらに、王に第2位の息子もない場合は、第1位の娘の夫が選ばれるというものであった。しかし、王位継承の方法を確立しようと尽力したにもかかわらず、テリピヌ自身は結局は世継ぎを残せず、その後1世紀にわたって王家の内紛は続いた。
新王国時代
王位継承をめぐる争いは、トゥドゥハリヤ2世が王座に就いたことで収束した。対外的には、トゥドゥハリヤ2世は西方へ遠征を行ったことを記録している。国内では、義理の息子アルヌワンダに共同統治者とし、代替わりの際に確実に権力を移行できるようにはかった。一方、その治世には、アナトリア北部に住む部族「カスカ」に国境を脅かされるようになっていた。トゥドゥハリヤ2世を継いだアルヌワンダ1世は、国境防衛のためにカスカと協定を結ぶなどの策を講じたものの、大きな効果はうまれなかった。

アルヌワンダ1世の死後は、その息子トゥドゥハリヤ3世が王位を継ぐことになる。のちの時代の文書では、当時北からだけでなく四方八方の敵から攻撃を受けたと言われ、ヒッタイトの防衛は再び厳しい状況に置かれていた。しかし、トゥドゥハリヤ3世は外部の攻撃を受けながらも、王国の再建を始めた。彼は息子たちを司令官として対外戦争を行なっていたが、なかでもスッピルリウマは有能な軍司令官として父親の信頼を受けていた。しかし、王位継承者指名されていたのは、彼の兄である小トゥドゥハリヤであった。スッピルリウマ1世は、これに不満を抱いた自らの支持者らを中心としたクーデタにより、ヒッタイト王に即位した。
スッピルリウマ1世は王座に就くと、王国の拡大に乗り出し、メソポタミア北部およびシリアへの遠征を行って同地域の国々を属国とし、東の隣国のミタンニに勝利して傀儡政権をたてた。スッピルリウマ1世は、それぞれの属国の支配者との間に「条約」を結び、主従関係を明文化した。特に自ら服従してきた国々の支配者に対しては、それまでの支配者による統治の継続を許可していた。また、息子のシャッリ・クシュフ(別名ピヤシリ)とテリピヌを、それぞれカルケミシュとアレッポにおけるヒッタイトの副王とし、シリアにおけるヒッタイトの属国の支配を統括させた。このようにしてスッピルリウマ1世は「帝国支配」の基礎を築いた。

(イスタンブール考古学博物館所蔵)
スッピルリウマ1世は当時ヒッタイトで流行していた疫病で死去したと考えられる。その王位を継いだのは、長男アルヌワンダ2世であったが、彼もおそらく疫病に倒れ、死した。そこで、スッピルリウマの末子ムルシリが若くして王座に就くことになった。ムルシリ2世は、軍事的にはアナトリア西部の「アルザワ」の国々の反乱に直面したが、最終的にはその多くを属国とすることに成功している。

ムルシリ2世の死後、息子ムワタリ2世が王位に就いた。この時代には、シリアをめぐるヒッタイトとエジプトの戦争、いわゆる「カデシュの戦い」が起こっている。ムワタリ2世は、その治世にハットゥシャからアナトリア南部の都市タルフンタッサへと遷都を行なっている。これは、エジプトとの来たる対決に備えたものであった。前1274年、ムワタリ2世はシリア北部に集結させたヒッタイト軍を南へ率い、エジプトのファラオであるラメセス2世は北へと進軍した。ヒッタイトとエジプトという当時のオリエント世界の大国は、シリアの都市カデシュで対決した。この戦争の結果はほぼ互角であるが、戦後の支配領域に着目すれば、一時的にはヒッタイトが有利な形で終わっている。

(Sirkeli)
ムワタリ2世は「カデシュの戦い」の数年後に死去し、王位は息子のウルヒ・テシュブ(即位名ムルシリ3世)に受け継がれた。しかし、その治世は短く、数年後にムワタリ2世の弟でウルヒ・テシュブの叔父であるハットゥシリが起こしたクーデタによって、廃位されている。このような方法で王となったハットゥシリ3世は、ヒッタイト王として国内外の信任を取り付ける必要に駆られた。おそらく方策としてハットゥシリは、かつて「カデシュの戦い」で争ったエジプトのラムセス2世に接近した。両者は、「条約」を締結して同盟関係を結び、ヒッタイトとエジプトの友好関係が確立した。その後には、ヒッタイトの王女がラムセス2世と結婚しており、友好関係の強化がはかられた。

王妃プドゥヘパのレリーフ(Fractin)
ハットゥシリ3世を継いだのは息子のトゥドゥハリヤ4世であった。この王は即位当初から国内外に深刻な問題を抱えていた。トゥドゥハリヤ4世は、父ハットゥシリ3世がクーデタで即位しているため、王室内には彼の王位を狙う可能性のある王族が多数いた。特に、ウルヒ・テシュブの弟クルンタはトゥドゥハリヤ4世のライバルであった。ハットゥシリ3世はクルンタの育ての親でもあったことから、ヒッタイト王になった際、クルンタをアナトリア南部のタルフンタッサ国の王に任命し、かつてスッピルリウマ1世が創設したカルケミシュの王と同等の位を認めていた。トゥドゥハリヤ4世はこの父親の決定にしたがうと同時に、タルフンタッシャ王クルンタとの「条約」を更新して、父親の時代よりも多くの特権を与えたことがわかっている。
対外的には、トゥドゥハリヤ4世は、ミタンニの支配から独立してメソポタミア北部で台頭していたアッシリアとの対決を強いられた。当初アッシリアとの緊張改善めざして和平交渉を始めたものの、その最中にアッシリアがヒッタイト領の攻撃を開始したことから、メソポタミア北部のニフリヤでヒッタイトとアッシリアの大戦争が起こった。トゥドゥハリヤ4世はこの戦争に敗れ、甚大な損失を被ることとなった。

トゥドゥハリヤ4世のレリーフ
(ヤズルカヤ)
国内の王の権威が失墜し、アッシリアにも敗北するなど、ヒッタイトの衰退が明らかになると、周辺の属国に対する支配も弱まった。トゥドゥハリヤ4世の息子で王となったスッピルリウマ2世は、アナトリア南部へ海上遠征を行ったことを記録している。これは南部の地中海沿岸地域の反乱を鎮圧するのと同時に、穀物の輸送ルートの確保を目的としたものであったかもしれない。すでにハットゥシリ3世の治世にはヒッタイトは外国からの穀物輸送に依存しており、ラメセス2世はヒッタイトの飢饉に対する支援としてエジプトから穀物を送っていたことがわかっている。
このスッピルリウマ2世が史料に残るアナトリアのヒッタイト王国最後の王である。国内の紛争や飢饉、人口移動など、複数の要因が重なった結果であると考えられるが、その治世の間に都ハットゥシャは放棄された。この都の放棄により、ヒッタイト王国の歴史は幕を閉じる。

歴代のヒッタイト王

参考文献
ヒッタイト関連
- C.W.ツェーラム(辻瑆訳)『狭い山 黒い谷―ヒッタイト帝国の秘密―』みすず書房 1975
- 大城光正、吉田和彦『印欧アナトリア諸語概説』大学書林 1990
- K. ビッテル(大村幸弘、吉田大輔訳)『ヒッタイト王国の発見』山本書店 1991
- 大村幸弘『アナトリア発掘記 ~カマン・カレホユック遺跡の二十年』NHKブックス 2004
古代近東史
通史
- 大貫良夫他『世界の歴史1 人類の起原とオリエント』 中央公論新社 1998
- 前田徹他『歴史学の現在 古代オリエント』山川出版社 2000
- 中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書 2007
単行本
- 前田徹『都市国家の誕生』(世界史リブレット1) 山川出版社 1996
- 月本昭男『ギルガメシュ叙事詩』岩波書店1997
- J. ボッテロ(松島英子訳)『メソポタミア 文字・理性・神々』法政大学出版 1998
- J. ボッテロ(松島英子訳)『最古の宗教—古代メソポタミア』法政大学出版局 2001
- 松島英子『メソポタミアの神像—偶像と神殿葬儀』角川書店 2001
- 中田一郎(訳) 『ハンムラビ「法典」』(第2版) リトン 2002
- 前田徹『メソポタミアの王・神・世界観』山川出版社 2003
- B. リオン & C. ミシェル (渡井葉子訳)『楔形文字を読む』(ルネ・ジノヴェス考古学・民俗学研究所叢書) 山川出版社 2012
- 前川和也『図説 メソポタミア文明』河出書房新社 2011
- 前田徹『初期メソポタミア史の研究』早稲田大学学術叢書 2017