新ヒッタイト諸王国について

目次

  1. 前1200年頃の大変動
  2. 新ヒッタイト諸王国の興隆
  3. 新ヒッタイト諸王国の文化
  4. 新ヒッタイト王国の歴史
  5. 参考文献

1. 前1200年頃の大変動

ヒッタイト王国が滅亡した前1200年前後は、古代オリエント全域において既存の秩序が崩壊し、大きな社会変動に見舞われた時期でもあった。東地中海沿岸の地域はアナトリア南部とエーゲ海から大挙して押し寄せた、いわゆる「海の民」の襲来によって大きな被害を受けた。エジプトは「海の民」の侵入を退けたものの、この時期にパレスチナの支配権を失い、衰退期に入る。ヒッタイト王国の滅亡も「海の民」によるものとされてきたが、近年の研究ではこの説は否定されている。

シリア中心部からメソポタミア北部にかけては、セム系のアラム人の大移動によって各地に大きな混乱が引き起こされた。軍事強国として台頭し、シリアの支配権をめぐってヒッタイト王国とも敵対してきたアッシリアも、前12世紀後半からアラム人の侵入に悩まされ、前11世紀半ばには領土の多くを失い、衰退期に入った。

2. 新ヒッタイト諸王国の興隆

こうした混乱期を経て、ヒッタイト王国がかつて支配したアナトリア高原南東部からシリア北部にかけては、主にルウィ語を話す人々とセム系のアラム人が支配する多くの小国が成立した。これらのうち、ルウィ系民族の建てた国とヒッタイトの文化的影響を色濃く受け継ぐアラム系の国は新ヒッタイト王国と呼ばれ、これらの国々が存続した時期(前1200年頃-700年頃)は新ヒッタイト時代と呼ばれる。ヒッタイト系の要素とアラム系の要素とが混ざり合ったことから、シリアの新ヒッタイト王国は「シロ・ヒッタイト(Syro-Hittite)王国」と呼ばれることもある。

一般的に新ヒッタイト王国に分類されるのは、アナトリア高原南東部のタバルの諸王国(ビート・ブルタシュ、アトゥナ、シヌフトゥ、トゥワナ、フピシュナ)、ヒラック、クエ、シリア西部のパッティン、ハマト、ルアシュ、ビート・アグシ、そしてユーフラテス川大湾曲部から上流にかけてのカルケミシュ、メリド、クムフ、ビート・アディニ、サムアル、グルグムである(各国の位置については地図を参照)。

これらの国々には主にルウィ語を話す人々とアラム人が住んでいた。崩壊したヒッタイト王国のエリート層や一般住民も移り住んだと考えられるが、明らかなことは分かっていない。また、アナトリア南部の海岸地域では、フェニキア語とルウィ語の2言語併用碑文も発見されていることから、フェニキア人も住んでおり、新ヒッタイト諸王国は多民族が共生する国であった。

「新ヒッタイト」という呼び名は現在の研究者がつけたものであり、新ヒッタイト諸王国の支配者たちが自分たちを「新ヒッタイト」と呼んだわけではない。しかし、新ヒッタイト諸王国はヒッタイト王国の伝統と文化を継承し、支配者たちは自らのルーツがヒッタイト王国にあり、ヒッタイト王国の末裔であることを誇示した。新ヒッタイト王国の支配者のなかには、ヒッタイト王国の王スッピルリウマ、ムワタリ、ハットゥシリ、ラバルナと同じ名前を名乗る者もおり、彼らがヒッタイト王国を意識していたことが読み取れる。

とくにシリアの属国を統治するためにヒッタイトの副王が置かれたカルケミシュでは、ヒッタイト王国の滅亡後も副王の王朝が存続し、有力な新ヒッタイト王国の一つとなった。カルケミシュの王はヒッタイト王の称号である「大王」と「英雄」を自らの称号として用い、ヒッタイト王国の正式な後継者と自任していた。

新ヒッタイトの王名表

アッシリアも、ヒッタイト王国の滅亡後もシリアからアナトリア南東部の地を「ヒッタイトの地(アッカド語でmāt Ḫatti)」と呼び、その地の住民を「ヒッタイト人(Ḫattû)」と呼んだ。アッシリアが新ヒッタイト諸王国とヒッタイト王国とのつながりをどの程度意識して「ヒッタイトの地」と呼んだのかは不明であるが、後の時代には「ヒッタイトの地」は単にアッシリアから見て西の地域を指す地名となっていった。

3. 新ヒッタイト諸王国の文化

新ヒッタイト諸王国の文化は、ヒッタイトの文化との連続性が指摘されている。なかでも、ヒッタイトとの文化を色濃く反映した建築様式、記念碑や彫刻などにみられるモチーフ、そしてヒッタイト象形文字を用いて記された象形文字ルウィ語(象形文字ルウィ語については「ヒッタイト語について」を参照)は新ヒッタイト文化の特徴となっている。

新ヒッタイトの建築様式はヒッタイトの様式を受け継ぎ、石を用いて建築物が建てられた。建物の土台には石が敷かれ、壁は石板を並べて作られた。王宮などでは石板には神々に対する儀礼や戦争の場面などとともに、王の功績を称える碑文が刻まれた。また、都市の門や建物の入り口の両脇にはライオンやスフィンクスなどの石製の彫像が配置された。

左上:ハットゥサの「ライオン門」
中央上:カフラマンマラシュ出土の象形文字ルウィ語が刻まれたライオン像(大英博物館所蔵)
左下:ハットゥサの「スフィンクス門」
中央下:ガジアンテプ出土のスフィンクスのレリーフ(大英博物館所蔵)
右:カルケミシュ出土のレリーフ。カトゥワによる神々への奉納について象形文字ルウィ語で記されている(アナトリア文明博物館所蔵)。

新ヒッタイトの建築様式は、アッシリアの王宮建築にも影響を与えた。新ヒッタイト諸王国に対して初めて遠征を行ったアッシュル・ナツィルパル2世(治世前883-859年)は、都カルフに建設した王宮を遠征や儀礼などの場面と自分の功績を記した碑文を刻んだ石板で飾り、入り口の両脇に人頭有翼牛像を配置した。この様式はその後のアッシリアの王宮建築の標準的な様式となった。

左:カルフ(現ニムルド)出土のアッシュル・ナツィルパル2世の王宮の人頭有翼牛(大英博物館所蔵)
右: カルフ出土のアッシュル・ナツィルパル2世の王宮のレリーフ(ルーブル美術館所蔵)。
アッシュル・ナツィルパル2世と王の侍従が描かれている。

また、サルゴン2世(在位前721‐705年)は自身の王碑文でヒッタイトの様式に倣い、ビート・ヒラニと呼ばれる建物を自分の王宮に建てたと誇っており、新ヒッタイト諸王国はアッシリアにとって文化的に関心をひいた地域だったと考えられる。

4. 新ヒッタイト王国の歴史

新ヒッタイト王国の歴史については、現地の支配者が残した碑文などが発見されているものの、史料の数が少ないために詳しいことは分かっていない。アッシリア王が残した王碑文も重要な史料であるが、王碑文は新ヒッタイト王国との戦いとこれらの国々の征服を記録するのみである。

メソポタミアとシリアやパレスティナをつなぐ地域にある新ヒッタイト諸王国は、その地理上の利点を生かし、交易に従事することでかなりの富を築いていた。アラム人の侵入によって衰退したアッシリアは、前10世紀半ばから領土奪還を開始し、再びシリアにも進出し始めた。アッシリアの王たちがシリアやアナトリアに遠征した大きな理由の一つは、新ヒッタイトの国々が持つ富とアナトリアで産出する各種の鉱物資源であった。アッシリアが新ヒッタイトの国々から得た戦利品や貢物なかには、金や銀その他各種の貴金属などが含まれており、これらの国々がいかに経済的に豊かであったかがうかがわれる。

新ヒッタイト諸王国は前10世紀半ばから衰退期を脱し、アラム人に奪われた領土を取り返して国力を回復したアッシリアの標的となった。前9世紀半ばにはアッシュル・ナツィルパル2世が地中海に到達する遠征を行うなど、シリアに対しても影響力を拡大していった。続くシャルマネセル3世(在位前858-824年)はシリアにたびたび進軍し、ユーフラテス川西岸にある新ヒッタイト諸王国は同盟を組んでこれに抵抗するものの、次々と属国としてアッシリアの支配下に置かれていった。しかし、シャルマネセル3世の治世終わりに起きた内乱によってアッシリアは国力を失い、新ヒッタイト諸王国はアッシリアから独立を回復した。

その後、アッシリアは再び衰退期に入ったが、ティグラト・ピレセル3世(在位前745-727年)の時代から国力を回復し、精力的に周辺地域を征服していった。新ヒッタイト諸王国も前700年頃までに属州としてアッシリアに併合され、新ヒッタイト時代の幕は閉じる。

参考文献

  • M.ローフ(松谷敏雄監訳)『古代のメソポタミア』朝倉書店 1994
  • 日本オリエント学会編『古代オリエント事典』岩波書店 2004
  • P.ビエンコウスキ, A.ミラード編著(池田潤, 山田恵子, 山田雅道訳)『図説古代オリエント事典』東洋書林 2004
  • J. D. Hawkins (1982) “The Neo-Hittite States in Syria and Anatolia,” in J. Boardman et al. eds., Cambridge Ancient History, vol. 3/1, 372-441.
  • J. D. Hawkins (1995) “Karkamish and Karatepe: Neo-Hittite City-States in North Syria,” in J. M. Sasson (ed.), Civilizations of the Ancient Near East, vol. 2, 1295-1308.
  • T. Bryce (2012) The World of The Neo-Hittite Kingdoms: A Political and Military History, Oxford.

(文責:青島忠一朗)

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